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 続けて、具体的に論文盗用の事例を見てゆこう。表で青字で示したのが蘇教授の著書の内容、赤字で示したのが立命館大学の韓国人留学生、張某が書いた博士学位論文の内容である。著書によると蘇教授はすでに1994年に著書のもととなった論文を書いている。張某の論文が盗用されたものであることは、このことから一目瞭然である。一覧表で整理したので、下記リンクも参照してほしい。なお、関西大学に留学中の韓国人留学生の助けを借りて韓国語でも読めるようにした。 

日本語:http://1st.geocities.jp/isonokami2014/toyojireij.html

韓国語:http://1st.geocities.jp/isonokami2014/toyojireik.html

 

 

 

盗用事例(31)

蘇鎮轍教授の論文(1994年)

張八鉉の博士論文(2002年)

つとに、景初2年(238年)の『魏史』倭人伝は、魏帝の使臣が見た「邪馬台国」の「女王」と「男弟」に対して(33頁)

例えば、景初3年(239)『魏史』「倭人伝」に魏帝の使いが見た「邪馬台国」の女王と男弟に関する貴重な記録がそれである。(67頁)

 

盗用事例(32)

蘇鎮轍教授の論文(1994年)

張八鉉の博士論文(2002年)

「一人の女を王に奉載しているが、彼女の名前は『ヒミコ』である。

「邪馬台国は一人の女を王に奉載しているが、彼女の名前は『卑弥呼』である。

彼女は鬼に通じ、人を幻惑させる。年を取っているが嫁入らず、国事は『男弟』(オオト)があって補佐している」と記述している。(33頁)

彼女は鬼神に通じ人を幻惑させている。年をとっているが結婚はしないまま国事は『男弟(オオト)』があって補佐している」と述べられている。(67頁)

 

盗用事例(33)

蘇鎮轍教授の論文(1994年)

張八鉉の博士論文(2002年)

したがって、女王を補弼する「男弟」は政務や軍務のような全域を専任するようになり、女王はもっぱら宗務にたずさわって、「邪馬台国」の国事管理は女王と彼女を補弼する「男弟」が共同で管理する形態を維持したと見られる。(33頁)

すなわち、邪馬台国は女王と女王を補佐する「男弟」が統治する形を取っている。女王が「宗務」を、男王は「政務」と「軍務」などを分担して統治したのである。(67頁)

 

盗用事例(34)

蘇鎮轍教授の論文(1994年)

張八鉉の博士論文(2002年)

男弟王である継体の諱は『書紀』には「男大迹王」、『古事記』には「哀本杼命」、そして『上宮記』には「乎富等大公王」、とそれぞれ異なった表記をしているが、これは皆男弟の訓の表記であり、・・・(46頁)

すなわち、『日本書紀』の「男大迹王」、『古事記』の「哀本杼命」そして『上宮記』には「乎富等大公王」、『筑後風土記』には「雄大迹天皇」と表記されるのである。 いずれも「オオト」と読まれるのである。(67頁)

 

盗用事例(35)

蘇鎮轍教授の論文(1994年)

張八鉉の博士論文(2002年)

「弟国」の地名は『書紀』継体紀にたった一回しか見えていない。学会ではこの「弟国」(オタラ)の位置を京都市長岡京市乙訓寺附近であるというが定かではない。(46頁)

また、継体天皇の三番目の宮殿が置かれた弟国(『日本書紀』に、即位12<517年>春三月丙辰朔甲子弟国<現在の京都府長岡市乙訓寺附近>に遷都)という地名からもその関連性を窺える。(67頁)

 

盗用事例(36)

蘇鎮轍教授の論文(1994年)

張八鉉の博士論文(2002年)

銘文の正当な解釈をするためには、男弟王の実体を究明する問題も重要だが、より重要なのは斯麻の実体を究明する問題である。(31頁)

銘文の中の斯麻という人物の実体を究明するのは最も重要なことである。(68頁)

 

盗用事例(37)

蘇鎮轍教授の論文(1994年)

張八鉉の博士論文(2002年)

というのは、彼は鏡の制作主体であり、隅田八幡鏡は彼の意思によって制作されており、また、その鏡銘は彼がじかに書いたものであるからである。(31頁)

なぜなら、彼は隅田八幡鏡銘文の主体であり、彼の意思によって鏡は制作されたからである。銘文もかれ自信が考えて書いたものである以上、正しい解釈は基本前提になることである。(68頁)

 

盗用事例(38)

蘇鎮轍教授の論文(1994年)

張八鉉の博士論文(2002年)

ところが、初期解釈者だった高橋は、銘文を判読ちがいして、斯麻を「斯麻念長」に理解したため、初めから解釈の諸口を解くことができなかった。(31頁)

しかし、初期の解釈に当たった高橋氏は、銘文の判読に誤って斯麻を「斯麻念長」と理解したため、解釈の糸口を見つけることができなかった。(68頁)

 

盗用事例(39)

蘇鎮轍教授の論文(1994年)

張八鉉の博士論文(2002年)

そのような遺物と一緒に発掘された一枚の墓誌である。この墓誌には、「寧東大将軍百済斯麻王年六二歳癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩」という字句があって、

そのなかで隅田八幡鏡と関わりがある貴重な誌石も現われたのである。そこには、「寧東大将軍百済斯麻王年六二歳癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩」とあった。

この古墳の被葬者は百済国第25代王武寧(諡号)であり、彼の諱は斯麻であり、梁帝が賜わった爵号は寧東大将軍である事実を確認するようになったのである。(32ページ )

これは、古墳の被葬者が百済第25代王武寧(諡号)であり、諱は「斯麻」であり、梁帝が下賜した爵号は寧東大将軍である事実を確認させた。(68頁)

 

盗用事例(40)

蘇鎮轍教授の論文(1994年)

張八鉉の博士論文(2002年)

蘇鎮轍教授の論文(1994年):斯麻王は癸卯年(西紀523年)、春秋62歳を一期に辞世した。

 

張八鉉の博士論文(2002年):斯麻王は癸卯年(西紀523年)、春秋62歳にして崩じたのである。

 

彼の辞世は『百済本紀』によれば、辛巳年(501年)に41歳の年に王位に就いたというから、それから22年間継続している。

『三国史記』「百済本紀」によれば、辛巳年(501年)40歳にして即位し、22年間国を統治したことになる。

・・・王世の「癸卯年」は彼が王位に就いた翌々年のことであり、それは503年になるのである。(32ページ)

隅田八幡宮銘文の「斯麻」は百済の「斯麻王(斯摩王)」と同一人物であると認めることが出来るし、癸卯年もまた503年であることを再確認できるのである。(68頁)

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