一定期間更新がないため広告を表示しています

 「石上神宮」と「七支刀」、「隅田八幡神社」と「人物画象鏡」という一般になじみが薄いこれらの用語に対して、ウィキなどの記述をもとに簡単に解説しておく。

 
 石上神宮



 
 「石上神宮」は奈良県天理市布留町にある。石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、石上布都大神社、石上神社、石上社、布留社、岩上大明神、布留大明神などとも呼ばれる。『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。祭神の「主祭神布都御魂大神」であり、神体の布都御魂剣に宿る神霊である。この他にも「配神布留御魂大神」(十種神宝に宿る神霊)、「布都斯魂大神」(天羽々斬剣に宿る神霊)、「宇摩志麻治命」、「五十瓊敷命」「白河天皇」「市川臣命」などがある。
 現在の位置は天理市布留町であるが、かつて山辺郡石上郷に属した布留山の西北麓に位置する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、大和政権の武器庫としての役割も果たしたとも考えられている。中世以降は布留郷の鎮守となったが、興福寺と度々抗争を繰り返し、「布留郷一揆」が頻発、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、神領も没収された。しかし、氏子たちの信仰は衰えず、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許された。
 この神社には本来、本殿が存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造した。建造のための1878年の禁足地再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。 

 石上神宮には「七支刀」(しちしとう、ななつさやのたち)と呼ばれる上古刀が伝わる。大王家に仕えた古代の豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の石上神宮に六叉の鉾(ろくさのほこ)として伝えられてきた鉄剣である。

 




 全長74.8cm。両刃の剣の左右に3つずつの小枝を突出させたような特異な形状を示す。金象嵌で記された銘文の中に「泰□四年」の年紀がある。これを西暦369年にあたる「泰和四年」と読む福山敏男説が有力で、刀はその頃に百済で製作されたと考えられている。七支刀は、中国で製造され神功皇后の時代に日本に渡った祭具であり、石上神宮に保存されていた。千年以上もその存在が忘れられていたが、明治時代初期、当時の石上神宮大宮司であった菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見した。七支刀の名は、鉾に似た主身の左右から三本ずつの枝刃を出して計て七本の刃を持つ形に由来すると考えられる。主身に金象嵌の文字が表裏計61字記されている。鉄剣であるために錆による腐食がひどく、読み取れない字もある。『日本書紀』には七枝刀との記述があり、4世紀頃、倭に対し百済が朝貢した際に献上されたものとされ、関連を指摘されている。刀身の両側から枝が3本ずつ互い違いに出ているため、実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたと考えられる。当時の中国との関係を記す現存の文字史料の一つであり、好太王碑とともに4世紀の倭に関する貴重な資料である。1953年(昭和18年)、国宝指定された。所蔵は石上神宮(石神神社)。基本的に非公開であるが、稀に公開されることがある。

 銘文の文字にはさまざまな説があり、次のような解釈がなされている。

 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作 

 泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作 

 先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世 

 先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世 

 内容の解釈にもさまざまな説があるが、「百済王が倭王に贈った」という解釈が定説とされ、当時の背景として、高句麗の圧迫を受けていた百済が倭との同盟を求め、贈られたとされている。また、『日本書紀』等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されているが、この七支刀献上に関しては、日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。紀年論によるとこの年が372年にあたり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。

 銘文の冒頭には「泰■四年」の文字が確認できる。年紀の解釈に関して「泰和四年」として369年とする説(福山敏男、浜田耕策ら)があり、この場合、東晋の太和4年(369年)とされる。「泰」は「太」と音通するため。また、「泰始四年」として判読する説(管政友、宮崎市定)がある。この場合は、中国の年号として、西晋の「泰始4(268)年」または南宋の「泰始4(468)年」とされる。
 ほか、変わった説としては、「泰和」を百済独自の年号とする判読法もある。1973年、金錫亨は「分国論」を発表し、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたと主張したが、そのなかで「泰和」を百済独自の年号とした。この説はその後も李丙らによって踏襲され、また延敏沫は別の文字「奉■」と判読し、おなじく百済独自の年号とした。しかし、これらの百済独自年号説は、村山正雄のレントゲン写真による分析の精緻化によって、浜田耕策によって反駁された。「泰和」を百済独自の年号とする場合は、2005年時点でこの七支刀が唯一の現存史料となり、年代が全く特定できなくなるし、また李丙は、日本書紀の神功皇后記の紀年論による年号である372年を根拠に「泰△元年」を369年とするが、その場合、東晋の太和4年であったということになる。しかし、当時、百済が独自に建元した記録が存しないため、成立しない。延敏沫は武寧4(504)年とするが傍証がないし、また504年当時の百済は干支を使用しているため、独自年号説は成立しない。

 浜田耕策による2005年の研究では、次のとおり解釈されている。

 www.geocities.jp/yk_namiki/stock/.../1-01-hamada_j.pdf

 (表面)
 泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥

 泰和四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練った□の七支刀を造った。この刀は出でては百兵を避けることが出来る。まことに恭恭たる侯王が佩びるに宜しい。永年にわたり大吉祥であれ。 

 (裏面)

 先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世

 先世以来、未だこのような(形の、また、それ故にも百兵を避けることの出来る呪力が強い)刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝に寄せることとした。それ故に、東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀(とこれに秘められた東晋皇帝の旨)を伝え示されんことを。 

 山尾幸久は、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じていることから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを模造して倭王に贈ったとの解釈を行っている。また、当時の東晋では、道教が流行しており、七支刀の形態と、その百兵を避けることができるとする呪術力の思想があったとする。

 浜田耕策は山尾幸久の分析を踏まえたうえで、百済王が原七支刀を複製して、刀を倭王に贈るという外交は、当時、百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている。

 宮崎市定は「泰■四年■月」を「泰始四年五月」として解釈し、次のように読解した。
 
 (表面)
 泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥

 <解読>
 泰始四年(468年)夏の中月なる5月、夏のうち最も夏なる日の16目、火徳の旺んなる丙午の日の正牛の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以てあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。 

 (裏面)
 先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世

 (解読)
 先代以来未だ此(かく、七支刀)のごとき刀はなかった。百済王世子は奇しくも生れながらにして聖徳があった。そこで倭王の為に嘗(はじ)めて造った。後世に伝示せんかな。 

 『日本書紀』によれば、神功皇后52年九月丙子の条に、百済の肖古王が日本の使者、千熊長彦に会い、七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。

 五十二年秋九月丁卯朔丙子 久氐等從千熊長彥詣之 則獻七枝刀一口 七子鏡一面及種種重寶 仍啟曰 臣國以西有水 源出自谷那鐵山 其邈七日行之不及 當飲是水 便取是山鐵以永奉聖朝 乃謂孫枕流王曰 今我所通東海貴國 是天所啟 是以垂天恩 割海西而賜我 由是國基永固 汝當善脩和好 聚斂土物 奉貢不絕 雖死何恨 自是後 每年相續朝貢焉

 神功皇后52年は252年とも計算されが、紀年論では干支二巡分年代が繰り上げられているとされており、訂正すると372年となって制作年の太和(泰和)四年(369年)と符合する。

 隅田八幡神社

 和歌山県橋本市隅田町垂井にある神社。主祭神は「誉田別尊」「足仲彦尊」「息長足姫尊」。貞観元年(859年) の創建。京都府石清水八幡宮から勧請された神社である。ここに伝わる人物画象鏡は、日本最古の金石文のひとつとして国宝に指定されている。10月中旬の例祭は、県の無形民俗文化財に指定されている。永禄3年(1560年)、松永久秀によって社殿堂塔が一時焼亡したが、慶長年間に再建されている。





 国宝に指定されている隅田八幡神社所有の銅鏡(東京国立博物館に寄託)。銘文に、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」(癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る)とあり、「癸未年」(503年)、「男弟王」が大和の「意柴沙加宮」(忍坂宮)にいたときに「斯麻」が鏡を作らせて「男弟王」の長寿を祈ったことが記される。「斯麻」は日本書紀のみならず墓誌にも別称の記された武寧王であるとの見方が強まっている。「男弟(おおと)王」は「男大迹(おほど)王」に比定することができ、その場合は継体天皇をさすと考えられる。この解釈では、継体天皇は503年に大和の忍坂宮にいたこととなり、継体天皇が畿内勢力の抵抗のため晩年まで大和盆地に入れなかったという見解は成り立たなくなる。ただし、ヲホドとヲヲトでは、6世紀初頭では相当発音も異なっており、「癸未年」として443年をあてる考えもあるなど、さまざまな問題を含んでいる。

 「隅田八幡神社人物画像鏡」は和歌山県橋本市に所在する隅田八幡神社が所蔵する5〜6世紀頃製作の銅鏡。鏡背の48字の金石文は、日本古代史、考古学、日本語史上の貴重な資料である。国宝に指定されている。
 
 隅田八幡神社の人物画像鏡は青銅製で径19.9cm。近世の地誌類にもこの鏡についての記載があることから、古い時代に出土したものであることは確かだが、正確な出土年代や出土地は定かでない。鏡背は円形の鈕を中心に、内区には古代中国の伝説上の人物である東王父・西王母など9名の人物を表し、その周囲には半円形と方形からなる文様帯、その外側には「鋸歯文」を表し、周縁部には漢字48字からなる銘を左回りに鋳出する。

 銘文は次のとおりである。

 癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
 「大」を「六」,「年」を「与」,「寿」を「奉」,「泰」,「彦」,「今」を「命」,「取」を「所」とそれぞれ読解する説もある。 

 (大意)癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月十日大王年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。

 「大王」の「大」、「男弟王」の「男」をはじめとして、必ずしも釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容についてもさまざまな説がある。「癸未年」がいつに当たるかについては多くの説があるが、西暦443年とする説、503年とする説が有力である。443年とすると、倭王済が宋に使いを遣わして「安東将軍倭国王」の称号を得た年であるから、大王は、允恭天皇を指すものと解釈できる。また、意柴沙加宮は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)皇后と何らかの関係があるとみられる。男弟王は誰であるかはまだ分かっていない。地名の固有名詞が音仮名で意柴沙加宮(おしさかのみや)、人名は、斯麻(しま、人名)、開中費直(かわちのあたい、河内直『百済本記』云、加不至(カフチ)、今州利などの二人の名が記されている。「日十」を「日下」と読み日下大王、即ち大草香皇子のことではないかとの説もある。
コメント
コメントする